ビビリのドミノ倒し

放射線の低線量被ばくについては、現段階では学術的(科学的?)なコンセンサスは得られていないものの、どれだけ線量が低くても人体への影響は線量に比例して「ある」(=閾値なしモデル)、というように考えて差し支えないのではないかと思う。ただしその影響はあくまで線量に比例するため、少なくともそれ「以上」ではない、ということも言えると思う。
低線量被ばくをあなどってはいけない、という専門家の意見もあるようだ。そりゃそうだ。でも、いくら見えないからといって、やたらに怖がるのもアホらしい。
低線量被ばくの影響をやたらアピールする「専門家」について、その熱心さは何に由来するんだろうという疑問が常にあったのだけど、もしかして、まだコンセンサスの得られていない、データ的に今後どう結論づけられるか不明のこの問題について、うっかり「安全だ」などと現段階で口ばしってしまい、あとでそれが間違っていたとなったら大変だ、責任を問われかねない、つるしあげにあいかねない、などといったことを恐れ、自己保身のためにあえて「やばいぞー」と連呼してるんじゃないだろうなあ。と、少々うがった見方かもしれないがそういう仮説が頭をもたげてきた。
簡単にいえば、ビビリー、ということである。
で、ビビリーな専門家が「やばいぞー」と連呼することで、ビビリーな一般人もビビる、すなわち「ビビリのドミノ倒し」といった現象が起こっているのではないだろうか。みんな「子どもが心配」とか言ってるけど、それは、「わたしはこれまで専門家の言うことを鵜呑みにしてきた。わたしに判断はできない。いまここで大丈夫などとわたしが判断したことで、将来子どもに何かあったらどうするのか、わたしに責任取れって言われてもわたしは専門家じゃないしわからないから無理。将来わたしにそうした責任がふりかからないように、できるだけリスクの少ない選択をしておこう」ということで、ビビリーな行動をしているのではないか。
要するに責任取りたくないんだ。(これまで通り)無責任(のまま)でいたいんだ。

東浩紀は家族を連れて東京から逃げてたそうだ。へー、逃げてたんだ、と思った。いや別にそれはそれぞれの判断だからいいんだ。だけど、何が起こるかわからなかったからって言い訳してるけど、そうかな。ぼくは自分の住んでる埼玉に二度、放射線がやってきたのをほぼリアルタイムでデータウォッチしてた。一時退避することも念頭にあったけど、以後、大気中の放射線量は落ち着く傾向を見せていた。つまり新たな大量放出は起こらなかった。少なくともゴールデンウィーク頃までは、データとにらみ合っていただろうか。逃げるにしろ、ここにいるにしろ、合理的な選択をしたかった。結局、想定していた最悪の事態にはならなかった。ぼくは逃げなかった。子どもたちにも、ふだん通り過ごさせた。一家のあるじとして、責任をもって、認知、判断、決定をしたつもりでいる。家族の被ばくに関する全ての責任はぼくにある。根拠なきビビリーにはなりたくない。

※ごくまれに、放射線被ばくの感受性が強い体質の人がいるらしいから、それは気になるんだけど。